篠山城は、慶長14年(1609)に、天下支配を磐石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大阪城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要衝に築いた城である。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15カ国20の諸大名が動員された。
城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いている。工事は、開始から1年に満たない短期間で出来上がるという突貫工事で進められた。笹山は全体が固い岩盤であったため、難工事の中での完成であった。
篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が行った。堀を二重に回し、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっている。方形の城は出入口が弱いため、そこに手厚い防御施設を構えたのである。天守閣は、城の完成を急いだことと実践向きの城としたため築かれなかったが、二の丸には大書院に代表される御殿が立てられた。
築城から5年後の大坂冬の陣(慶長19年<1614>)、その翌年の大坂夏の陣(慶長20年<1615>)で、城主の松平康重は篠山城から大坂城攻撃に出陣し、篠山城は家康が狙ったとおりの役割を果たすことになる。さらに、夏の陣を経て江戸幕府が安定るすると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられる。江戸時代を通して、幕府が信頼した譜代大名の4家が、藩主として次々と篠山城に移ってくることになる。 |
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